漆黒の鷹漆黒の鷹

第一章 高市(たけち)
2 星を見上げて

 高市は夜中になぜか目が覚めてしまった。隣では祖父がすやすやと寝息を立てている。せっかく起きたのだからと、小用を足すため家の外に出た。月のない夜だ。真っ暗な夜の中にキラキラ輝く宝石をざらざらとこぼしたように、星々が夜空を埋め尽くしていた。
 高市は満天の星を見上げる。いつも北を示してくれる便利な星を祖父に教えてもらったばかりだった。確か、あっちのひしゃく星の先を伸ばしていくんだ。一つ、二つ。五つまで数えたところでひときわ明るく輝く星にぶつかった。これだ。これが北極星。
「どこにいてもあの星を見つければ方角がわかる。家に帰って来る目印じゃ」
 北極星を教えてくれたときに祖父が言ってた言葉。
 じいちゃんは本当に心配性だ。高市は苦笑いを漏らす。
 道に迷うはずなんてないのに。この谷底はすべて高市の庭なのだ。どこに行っても必ず家に帰ってみせる。早く大人になりたくて仕方ない少年は、自信たっぷりにそう考えていた。

 家の前に朴の木が生えていた。大きな葉っぱは握り飯をいくつか包んでいくのに便利だ。厠はその朴の木の奥。そのとき高市はいたずらっぽい光に目を輝かせていた。ここでいいか。北極星を眺めながら、というのもオツなものかもしれない。
 高市がニヤリと笑みを浮かべたとき、バサバサっと羽音がして、いきなり大きな影が覆い被さってきた。何だ? 何が来た? 口の中に何かが押し込まれた、その次の瞬間には高市の体はふわっと宙に浮かんでいた。大きな黒い手が彼をがっちり掴んでいた。
 黒い影と高市は、彼を祖父のいる家に導いてくれるはずの星に背を向けて、音もなく闇の中に消えていった。
 朴の木はもういつもと同じように静かだった。さっきまで高市の立っていたぬくもりすら残っていなかった。フクロウの鳴き声がときおり不安げに響いていた。
 その夜を最後に高市の姿は村から消えた。たった一人取り残された祖父は狂ったように孫を捜し求めたが、手がかりはどこにも残っていなかった。嘆きの声は谷底の村を覆い尽くし、崖を這い上がり、ごつごつした広場から黒々とした森のあたりまで漂ってきた。しかし、以前そこに立ち、大気から自由自在に声をすくい上げていたはずの黒衣の男の姿は、もうどこにも見あたらなかった。
「高市ー、たけちー」
 祖父が孫を呼ぶ悲しみの声は黒い森に阻まれ、荒波にもまれる泡のようにどこにもたどり着かず、空しく消えていった。

 そのころ、高市は猿ぐつわをかまされ両手両足を縛られていた。その瞳はらんらんと怒りに燃えて、傍らに立つ男を睨んでいる。しかし動くこともままならないこの状態ではどうしようもない。
 縛られて床に転がされた哀れな少年のそばにたたずんでいるのは、顔の半分を髪で隠した男だった。ちょうど高市の親の年頃であろうかと思われるのに、一つだけのぞいている瞳には、子供に同情する光などかけらも見あたらない。無表情に、うなりつづける少年を見下ろしている。
「おまえはもう村へは戻れない。ここで暮らすか、命を絶つか、どちらかを選べ」
 男はそう言い残して部屋を出て行った。扉が閉まり、高市は高窓があるだけのなにもない部屋に一人残された。

 高市はいきなりのことにわめき散らそうと思ったが、猿ぐつわをかまされた口からは何の言葉も出てきはしなかった。体を芋虫のように動かして、男の出て行ったドアに何度も体当たりしてみたが、重い扉が開くわけもなく、鈍い音と肩の痛みが残っただけであった。
 ちきしょう、声にならない声で高市は唸る。どこなんだここは? あの羽の生えた妙な男はなぜおいらを連れてきたんだ? あいつは何者だ?
 ちきしょう、こんなところに転がしやがって。これは牢屋じゃないか。おいらが何をしたって言うんだ。
 天井近くについている窓からは星が一つだけ見えた。その星が高市には祖父の教えてくれた北極星のように思えた。
 ちきしょう、じいちゃん心配してるだろうな。じいちゃんにもう会えないのか? じいちゃんはおいらがいなかったらどうするだろう。互いに支え合って生きてきた日々が頭を駆け巡る。
 祖父の大きな手。もう子供じゃないって突っぱねてたけど、その手で頭をなでられるときは、いつも暖かな気持ちになった。手をつなぐのも恥ずかしかったけど、でも安心出来た。母ちゃんや父ちゃんに一目でいいから会ってみたくてたまらなかったけど、大きな祖父の胸はそんな気持ちをいつもふんわり包み込んでくれた。
 高市の頭をなでながら静かな声で、「おまえの父ちゃんはおまえが生まれたときそりゃあ喜んでなあ」とか、「おまえの母ちゃんはちいとばかりおっちょこちょいでな」などと、両親の顔も覚えていない子供のために思い出話をしてくれたのだった。
 もうあの優しい声を聞くことはないのだ。その言葉が高市の胸に不意にすとんと落ちてきた。それを理解したとき少年は初めて涙をこぼした。一度堰を切った涙は次から次へと流れ落ち、頬をぬらし続けた。ちきしょう、ちきしょう、ちきしょう。幼い子供が今までの自分を流し去るには、どれだけ涙を流しても足りそうになかった。高窓から差し込む星明かりだけが、薄暗い室内を何とか照らそうと空しい努力を続けていた。

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