漆黒の鷹漆黒の鷹

第一章 高市(たけち)
3 たった一人の反抗

 さっきから高市は、目の前でかすかに湯気を上げている皿を眺めながら考えている。両足の縄は固く結ばれたままだが、両手と口の縛めは解かれている。この部屋に監禁されて三日目のことである。
 三日間に思いつく限りの逃亡行為を試みたが、その結果は両手や肩に無数についている擦り傷や、殴られた青あざにしかならなかった。じいちゃんくらい大きいくせに、思いっきり投げ飛ばしやがって。覚えてろ。負け犬の遠吠えと言う言葉が頭をかすめたが、大きくかぶりを振って振り払った。
 こんなところにいつまでいても仕方ない。逃げ出すんだ。そのためにはまず敵を知らなきゃな。なぜおいらをこんなところに連れてきたのか、それがわからないとこれからどうするか考えられない。

 高市の腹がさっきから主を無視して空腹を訴えている。ずっと食事に手をつけていない。夢にまで出てくる食事を前に、口の中にも唾がたまり始めている。
 だめだ、だめだ。何が入っているかわからないぞ。敵の食事なんか食べてたまるか。でも何の肉だろう。村ではほとんど魚ばかりの食卓だったので、この肉が何かはわからない。しかし猛烈にうまそうなにおいがしていることに変わりはない。
 ……腹が減っては、と言うしな。皿から立ち上る湯気の誘惑に、高市はついに陥落した。

 いつものように黒い着物の肩に,黒いマントを羽織った男が、皿を下げるためにドアを開けて入ってきた。高市は慌てて壁の方を向いてふて寝の体勢を取る。息を殺して背中全体で男の様子をうかがうが、いつもと変わりなく声もかけずに出て行ったようだ。その気配に高市はほっと息をついて、大きくのびをした。

「これ、取ってくれよ。もう逃げねえよ」
 次の日、四日ぶりに出す自分の声はかすれていた。しまんねえな、と思いながら男を見上げる。翼を持つ男は話しかけられたことに驚きもしなかった。高市は初めて正面からまともに男を見た。
 細いあご、薄い唇、長い髪、真っ黒な着物の下の細いけれど堅く引き締まった体。顔は女みたいなんだけどな。高市は独りごちる。この何日か、その女みたいなやつに、何度も壁にたたきつけられたのだった。
 まだ背中痛てえし。スープを口に運ぶたびに、背中がズキズキ痛かったのはついさっきのことである。
 上から高価そうなマントを着て隠しているけれど、この下には黒い翼が隠れているのだ。あの翼は本物だろうな。飛んでたもんな。他にも翼の生えた人間がいるんだろうか。カラスみたいなつやつやした黒い羽だったけど、形は鷹みたいだったな。
 谷底から見上げていると、崖の上に時々オオタカが留まっていたことがあった。高市は飛んでいるオオタカを見るのが好きだった。高市にはとても越えることの出来そうにない崖を、軽く飛び越えてゆくオオタカにあこがれにも似た気持ちを抱いていた。

「もう逃げないのか?」
 現実には両足を縛られ動くことも出来ない。男のからかうような口調にカチンときながらも床に座り、縄を解きやすいように足を椅子に乗せる。男は無造作に高市の縛めに手を伸ばした。
 男がうつむいた一瞬、長い黒髪に隠れていつもは見えることのない左側の顔が、チラッと見えた。顔半分が赤く焼けただれてぬらぬらしたケロイドになっている。
「それ、火傷か?」
 思わず声をかけてしまってから、高市は唇を噛んだ。こういうことを聞くつもりじゃなかった。ここから出る方法を探らなきゃいけなかったのに。これじゃ逆効果だ。
 男はなにも言わずゆっくりと縄をほどき、顔をあげた。怒っているかと思っていたのに、その顔は平静そのものだった。
「そのとおりだ」
 高市が何か言わなきゃと内心で焦っているうちに、男はマントを翻して出て行ってしまった。ドアの閉まる音を聞いて、高市はほうっとため息をついた。

 閉まったドアを見ながら高市は考える。あのマント、翼の出るところが作ってあったな。特製かな。高そうなマントだけど、ちょっとぼろぼろになってたな。
 高市は、村で一番洒落者のおっちゃんが「今、よその村ではマントっていう物がはやっているのだ」と自分の継ぎの当たった着物の上に、ぴかぴかのマントを着て意気揚々と凱旋してきたときのことを思い出した。
 高市の村は三方を崖に囲まれているので、他の村との交流は途絶えがちになる。といっても没交渉というわけでもなく、年に何度かは足りない物を買いに行ったり、村の特産品を売りに行ったりする。
 たいていは下ノ村まで歩いて行くが、よその村で大きな市が開かれるときは、下ノ村から船だ。高市たちの上ノ村は川底がごつごつしすぎていて、とても船に乗れる状態ではないから、下ノ村から船に乗るのだ。何人かが村の特産品であるヤマブドウの酒をもって売りに行き、その金で必要な物を買ってくるというわけだ。
 あのときはすごい騒ぎだったな。高市はクツクツ思い出し笑いをする。 
 マントが高価で、頼まれていた物をほとんど手に入れて帰らなかったものだから、楽しみにしていた家の怒りはすごかった。でも一番の剣幕はおっちゃんのおかみさんだ。村の真ん中でおっちゃんを素っ裸にしたのだから。あれは今でも語りぐさだ。

 ――さっきの男のマントはよく似合ってたな。高市は食器を持って出ていった男の背中を思い浮かべる。
 おっちゃん、負けてるよ。思わず顔が緩んでしまって、それとともに溢れそうになった涙を右手でごしごしぬぐった。
「帰ってやるさ、あの村に」
 自由になった両足で簡易寝台に寝転がりながら、高市は決意するように声に出して言った。

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