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お嬢様、降参です

 初めての駅を降りて商店街のある坂を上っていく。
 まあまあいい街じゃないか。色つきのアスファルトが商店街だとわかりやすいし、街灯もおしゃれだ。小洒落た食べ物屋もいろいろありそうだ。
 そんなことを考えながらだらだら歩いて行くと目当ての病院にたどり着いた。駅を降りたら自然とここに来るようになっているらしい。
 ここまでの道にいくつもこの病院への標識があったし金はありそうだな、今回の就職先は大丈夫かもしれない。世知辛い考えを振り捨てて、ついでに額に浮いた汗もぬぐった。暑い。
 今日はこの病院でバイトの面接がある。すこしでも印象はいい方がいい。なんといってもオレはいつも第一印象で損をするのだから。
 受付で院長室を尋ねる。制服を着た受付嬢がぎょっとした顔でオレを見上げてくる。いつものリアクションだ。
 すれ違う患者や病院のスタッフもオレを振り返りながら何事かささやきあっている。もしも採用されればオマエ達もオレに慣れてくれよ、祈るような気持ちになってしまう。
 明らかに高そうな材質のドアの前に立った。何度も経験してきたが、この瞬間は未だに嫌なものだ。できればくるっと後ろを向いて立ち去りたい。いい年をしてと言われるだろうが、それがオレの正直な気持ちだ。
「入りたまえ」とノックに答える声がした。オレはドアノブに手を掛けて少し屈むようにして室内に入る。
「桐生くん、だったね。よく来てくれた。そこに掛けてくれたまえ」
 正面のでかい机に座っていた小太りの男が立ち上がって、ソファセットを指し示した。顔いっぱいに笑っている布袋さまのようだ。印象は悪くない。オレは挨拶してソファに目をやる。

 そこには先に二人が座っていて、オレを見上げていた。
 冷静沈着な感じを与える銀色フレームの奥から無表情にオレを見ているのは、三十歳をすこし過ぎたくらいの男。軽く会釈してきたところを見ると、こちらもそんなに悪い印象は与えてないようだ。
 会釈を返してもう一人を見る。と、オレの胸の奥がドキンと一つ溜息をついた。
 顔が小さく小柄な、かわいい感じのお嬢さんだ。大学を出たてといったところか。もう一度溜息をつく。いかにもお嬢さん、といった美人は苦手なんだ。彼女は薄紫のスーツに身を包み、ちょっと口を開けてこちらを凝視している。

「大きいのね。身長どれくらいなの?」
 最初のセリフがそれかよ、初対面の年上に対する言葉遣いじゃないぜ。なんだかワクワクしながらオレは答える。
「一九九・五センチです」
「二メートル!」
 いや、〇・五センチ足りないって。さすがに口に出しはしなかったが、目つきで察したのだろう、女はクスクス笑い出した。

「美由紀、失礼なことを言ってはいけないよ。君も申し訳ないね、桐生くん。さあ座ってくれたまえ」
 オレのような大男が四人座ってもまだ余りそうなでかい革張りのソファに座ると、体が沈み込んだ。柔らかくて昼寝にぴったりだ。
「私が院長の福山だ。そしてこちらが麻酔科の高田先生。そして同じく麻酔科で、娘の福山美由紀だ」
 はす向かいに座る院長と、右隣の高田先生から名刺を受け取る。オレは以前の病院の名刺を渡すわけにもいかず挨拶するにとどめておく。
 しかし、美由紀と呼ばれた正面の女は挨拶もせずに、ただニヤニヤとオレを眺めている。大病院のお嬢様だったのか。少し残念だったな。いや、オレは何を考えているんだ。

「さて、君の履歴書を見せてもらったのだが、ちょっと質問してもいいかね」
 院長は早速面接を開始した。
「君の経歴はなかなか魅力的だねえ。最初は建築関係の大学か。優秀な大学じゃないか。どうしてそちらの方面に進まなかったんだい?」
 いつも聞かれることだ。いつも通りに「医者になるという初志を貫徹したくて」と答えるつもりだった。が、目の前のお嬢様がふわふわした髪を払いのけながらじっとオレを見ているのが気に障って、つい本当のことを答えてしまった。
「卒業間近に担当教官とケンカしたんです」
 ブハッと盛大に吹き出す音が目の前から聞こえた。おい、それは失礼すぎるだろう。院長と高田先生も顔を見合わせて困った顔をしている。
「それで内定を取り消されまして、仕方なく医学部に編入しました」

「仕方なくでこの大学の医学部に編入出来るとは優秀なんだな」
 履歴書に目をやり、苦笑いを浮かべながら院長が言った。
「まあいい。それで医師免許を取って大学病院の小児科医になったと。そのあと麻酔科に変わっているのはなぜかね?」
 チラッと向かいの女に目をやると、目をキラキラさせて期待に満ちた表情だ。オレは諦めてまた本当のことを答えた。
「患者に泣かれて診療になりませんでした」

 目の前の女は、今度は声を出して大笑いしている。院長も高田先生も顔をゆがめて笑うのを堪えている様子だ。チキショウ、顔も性格も好みなんだがなあ。お嬢様の外見のくせに大口開けて笑うなよ。

 仕方がないじゃないか。オレは一九九・五センチの大男のうえにガタイもいい。ラグビー選手とよく間違えられる。実際は運動音痴でラグビーなんてとんでもないのだが。
 そのうえ声が低い。顔が怖い。目つきが悪い。診察の時は気にしてマスクをしていたが、目だけで睨まれる方が子供には怖かったみたいで、ほとんど診療にならなかった。
 本当は子供が好きだ。キャッキャッ笑う声も気にならない。抱き上げてほおずりしてやりたいくらいなのだが、泣かれてまで抱き上げたくない。
 だから、もう一度大学に通って麻酔の勉強をしながら、麻酔科の医師として働いた。麻酔科なら相手はほとんどの場合眠っている。麻酔に入る前に少し話す程度だ。泣かれる心配はない。
 そんなことをかいつまんで話す。院長は同情してくれているようにふんふんと頷いて聞いていた。高田先生もしかりだ。目の前の女のことは腹が立つので見ないようにしていた。
「ふむふむ、大変だったね。それじゃあ三十五歳の時に、大学病院から個人病院である原病院に移ったのはなぜだい? 引き抜かれたのかな?」
 オレはチラッと女に目をやる。女は次の一言をワクワクして待ち構えている様子だ。嘘をついたらすぐにばれそうだ。オレは溜息をついて重い口を開いた。調べればすぐわかることだ。
「同僚を殴りました」

 女は笑い転げている。息も絶え絶えといったところだ。なんてヤツだ。しかし笑い転げていても美人はサマになっている。なんだか余計に腹が立つ。
 院長は、今度は心配そうにコホンと一つ咳払いしてから言った。
「それは……君に殴られたら相手も痛かっただろう。どうしてなのか聞いてもいいかね?」
「相手のフットワークがよくて反対に殴り返されました。先に殴りかかったのがこっちだったので辞めたまでです。理由は……女性問題です」

「取られたの、取ったの?」
 間髪を入れず飛んだ質問に、「取られた」とこれまた正直に返す。
 オレの右側にいる高田先生の方からグフッというくぐもった音が聞こえた。女も涙を流して笑っている。

 布袋さまのような院長は困った顔をしていても、温厚そうなイメージが崩れない。こんな顔をしていればあのまま小児科にいられたのかもしれない。そんなことを思いながら院長を眺めていると、咳払いをして院長が話を続けた。
「それで三年間原病院に勤めたけれど、また辞めたと。あの病院の話は聞いているよ。原院長が横領していたんだろう。君も色々と大変だったね」
 院長は他人事でないのか、しみじみとしている。オレには迷惑なだけだったが。
 再就職がどれほど大変だったのか、あの院長は考えたこと無いだろう。すぐにバレるような横領をしやがって。バレるようなことならするな。
 オレのそんな心の声が聞こえたのか、女がまたクスッと笑った。

「下の名前はなんていうの?」
「隆史(たかふみ)」
「タカちゃんがいい? それともフミちょん?」
「一体何の話をしているんだ?」
「あらもちろん、お互いの呼び名よ。これからパートナーになるわけでしょ。呼び名を決めないと。名字で桐生さん、福山さんなんて寂しいでしょ」
 そう言うと、彼女は父親である院長に向き直り、こう言った。
「お父様、私この人でかまわないわ。決めてくださいな」

 オレが呆れてものも言えずにいると、父親で院長の福山氏がこちらに向き直った。
「娘もこう言っているし、こちらとしては君に働いてもらいたいと思っている。今度はこちらの話も聞いてほしい。それで断るというのなら断ってもらってもかまわないから」
 オレが頷くと院長は座り直した。
「美由紀は大学を出てすぐこの病院で、麻酔科の医師として働いている。ただまだ二十六歳で余り経験がないから、麻酔医としての仕事は高田先生の負担が大きくなってしまう。うちの病院では手術が多いので麻酔医は大変なんだ。
 美由紀が給料は半分でいいからアルバイトを雇ったらどうかと提案してきた。その方が自分も仕事を覚えられるからと。
 そこで君にお願いなのだが、麻酔医として働きながら、美由紀を一人前にしてやってもらいたいのだ。君のような経験のある人材を決して粗末には扱わない。どうだろう、考えてもらえないだろうか」

 オレの仕事はこのお嬢さんを一人前にすることか。将来この病院を任せるためにお嬢様を育て上げるってことだな。そう思って前に座るお嬢さんを見直すと、不敵な笑顔で笑いかけてきた。雇い主に見とれるのは御法度だろう。あわてて目を反らす。
 まあ、年も離れているからかえって気を遣わなくて済むだろう。
 それに提示された金額はアルバイトとしては破格だ。お父さんは気前がいい。
 ただ忙しくなるだろうからあちらの方は断るか。すこし惜しい気もするが、最後まで書き上げられる自信が無いからな。一応あちらに先に断りを入れてからにしてもらおう。

「わかりました。ただ他の仕事で決まりかけているのがあったので、そちらを断ってからということにしてください。明日にはお返事出来ると思います」
 オレがそう言うと、布袋さまはつやつやとした笑い顔を浮かべた。
「高田先生もそれでよろしいですか?」
「ええ、異存ありません」銀縁眼鏡の奥がきらっと光る。
「ということで、お父様、私も構いません」お嬢様もにこやかに微笑む。
 愛娘の言葉を受けて布袋様はオレに向き直った。
「わかった。それじゃあ、いい返事を待ってるよ。美由紀、病院を案内してあげなさい」
「わかりました、お父様。こっちよ、ついてきて」
 最後の言葉はオレに向けられたものだったのだろう。先に立って歩き出すお嬢様の後を追いながら、オレは残された二人に一礼をした。

「あ、ちょっと待ちたまえ」
 院長に呼び止められる。振り返ったオレに布袋さまはちょっと目を細めて問いかけた。
「最後の質問なんだが、その、君の髪は何か意味があるのかね?」
 肩下まで伸ばした長髪を後ろで一括りにしていることを言っているらしい。
「こうしていると人が寄ってこないので。怖いみたいです。支障があるなら切ってきますが」
「いや、それには及ばないよ」
 院長が口元をひくひくさせたのを確認してから、笑い転げているお嬢さんを置き去りにして、オレには低い位置にあるドアを身を屈めるようにしてくぐり抜けた。

 オレはお嬢様に連れられて事務手続きをしに事務室へ行こうとしていた。

 突然お嬢様が振り向いて「なんて呼ぶか決まった?」と問いかけてくる。オレは一瞬何のことを言われているのかわからずに、ぽかんとお嬢様のピンク色に染まった唇が動くのを見ていた。
 お嬢様はクスッと笑って、
「決まらないんだったらフミちょんにしようかな」
なんて言う。オレは慌てて認識のすり合わせを謀った。
「普通に桐生先生でいいじゃないか。何がいけない?」
「だめよ、私が嫌なの。文句言うんだったらおじさんって呼ぶわよ。思いっきり甘ったるい声で」
 どうしてオレが一回り以上、十四歳も違う女の子にフミちょんなんて呼ばれなきゃならないんだ。おじさんなんて論外だ。敗北感でいっぱいになりながらも抗弁を試みる。
「もう一人の銀縁眼鏡の先生がいただろう。どうしてあっちは高田先生で、オレは名前呼びなんだ? 年齢だけならどうみたってオレの方が年上だぞ」
「だってあっちは先輩でしょ。タカちゃんは給料も半分ずつのパートナーじゃない」
 お嬢様はふふんと微笑んだ。
「……呼び捨てにしてくれ」
「決まりね。私も美由紀でかまわないわ。よろしく、隆史」

 ぐったり疲れたオレが一階の受付の前を横切ろうとすると、受付嬢に呼び止められた。
「桐生様でいらっしゃいますよね?」
 その声にうなずくと受付嬢は安心したように言った。
「先ほど白河書房の山川様とおっしゃる方からお電話がありまして、携帯電話が通じないので桐生様に連絡を取りたいと焦っておられました」
 大事な面接だったのでマナーモードにしたままだったのだ。携帯を見てみると着信が三回も入っている。こんなところまで、とげっそりしながら受付嬢にお礼を言う。

歩き出そうとするといきなり腕を取られた。オレの腕にぶら下がるようにしながらお嬢様は首をかしげる。
「白河書房、ってたしか若い子向けの本を出してる出版会社でしょ。そんなところがなぜ連絡をほしがるの?」
 さて何と言ったものか。このお嬢様はなかなか鋭そうだ。今日から同僚になるわけだし、あまり隠し事を作るのもいかがなものか。
話すから、オレの腕でブランコするのはやめろ! お嬢様はオレの腕に掴まってのんきにブラブラぶら下がっていた。一五五センチくらいか。四〇センチほど身長差があるとブランコできるのか。今までオレの周りに居た数少ない女は皆一七〇センチ以上あったので、こういうのが新鮮ではあったのだが。

「本を出版してもらえるかもしれないんだ」
 嘘をついてもきっとばれそうな気がして、結局本当のことを言った。
 お嬢様はまん丸な目をさらに見開いて、口を開けたり閉じたりしたあげくに聞いてきた。
「ラノベ?」
 どうしてこのお嬢様はこんなに勘がいいんだろう。舌打ちしたい気持ちでオレは渋々うなずく。
「ああ、そうかもしれない。恋愛ものだ」

 もともとオレは文学青年だった。といっても本棚の中身は七歳上の姉貴が支配していたので、幼い頃は姉貴の買ってくる本ばかり読んでいた。姉貴は今で言う腐女子の走りだった。あの頃の言葉で言うとオタクだ。
ただ、あの当時それほどきわどいものが出版されているはずもなく、純愛少女漫画や小説ばかりが本棚をびっしり埋めていた。おれの精神はあらかたあの本棚が作ったと言っても過言ではないと思う。
高校になる頃には姉貴の本棚からは卒業したが、大学に入って一人で下宿していたり、就職が上手くいかなかったり、小児科の夢を断念したとき、彼女を無くしたとき。要するにつらいときにはいつもあの頃の少女漫画や小説が慰めてくれた。
 院長の横領で職場がなくなったときは、さすがのオレも不安だった。属するものがないということはここまで孤独なものなのか。どんな集団にも属していない、誰もオレを必要としていない。今までの自分が足下からぽろぽろと崩れていくような不安。
あのときネット小説サイトを見つけていなければ、孤独感にさいなまれてどうなっていたかわからない、と思う。
 幸い仕事が無く時間は無限にあった。ネット小説を読むだけだったのが投稿してみるまでに、そんなに時間はかからなかった。そこから後はとんとん拍子だった。

「隆史って、かわいい!」
 オレは今日何回この女にからかわれているのだろう。ブランコは止めてくれたが依然として腕は組まれたままである。
「すごいじゃない、作家になるの?」
「いや、出版するかもしれないってところで止まっている。素人が小説家のまねごとをするのは限界があるらしい」
 そう言うと、お嬢様は身を乗り出した。
「あら、どんな障害があるの?」
オレは言いよどむ。お嬢様にこんなことを聞かせるわけにはいかないからだ。どう言いつくろうか考えているうちに、お嬢様の方が口を開いた。
「どうせエッチが上手く書けないとかじゃないの?」

 図星だとわかったらしく、お嬢様は「思った通りね」というようにたたみかけてくる。
「隆史の書くエッチなシーン。読ませてよ」
「そんなのあるわけないだろ! オレの書いているのは成人指定なしだ」
「えっ、そんなの面白くないじゃない。ネット小説っていうからてっきり」
「オマエな、オレは男だぞ。アノ時の女の気持ちなんてわかるわけないだろうが」
「あらどうして? 私、女だけど、男のどこを触ったら気持ちいいのか知ってるわよ」
「おっ、オマエ、こんなとこで何を……」
 オレは受付からさほど遠くない場所でこんな会話をしていることに気づいた。まずい。オレの顔色を読み取ったお嬢様も同意する。
「たしかにここじゃまずいわ。今度の小説の舞台はどこなの? 禁断のオフィスラブ? 病院の会議室に行ってみる?」

 あの後、「エッチシーンを書けと言われているが、上手く書けないから出版を諦めようと思っている」と打ち明けたばかりに、お嬢様は病院のエントランスに仁王立ちになって、「協力してあげましょうか」と、言葉は優しいが猛禽類がネズミを見つけたときのような目でオレに迫ってきた。そしてオレの部屋の部屋まで来て、「ソファがないから隆史の背中を貸してね」とオレの背中を背もたれにしながら原稿を読んでいる、とこういうわけだ。

「女が一人暮らしの男の部屋に入るってことは、それなりの覚悟をしてるってことよ」
 熱弁をふるうお嬢様だが言っておこう、ここはオレの部屋だ。お嬢様はオレの隣にぺたんと座りながら、オレの背中にもたれかかって、その上、オレのエッチシーンの書き込みが足りなすぎると酷評された原稿を読んでいる。これは一体何の拷問だ?

『女は口付けされるとくすぐったそうな表情をした。男はその表情を見るとたまらなくなって、白い胸に手を伸ばした』

「女がそんなもの声に出して読むな」
 オレはやけくそのように声を荒げた。オレの恫喝は泣く子も黙ると言われているのだ。気にしたかな、と彼女をうかがうが、お嬢様はいっこうに気にする気配も無く、オレの原稿を読みながら煎餅をばりばりかじっている。
「まるでダメね、一度のキスで触られてたまるもんですか。まずは、これでもかってくらい甘い言葉よ。『君のすべてが欲しい』とか『君の全部を感じたいんだ』くらい書いてみなさいよ。
 それにこんなのキスでも何でもないじゃない。何度も何度も、向きを変え、深さを変えながらキスするの。描写が全然なってないわね」
 オレは頭を抱えて転がりたかった。なぜこんなことを言われているのだろう。同僚になるかもしれない、大学を出たばかりの、十四歳も年下の娘に。

『一糸まとわぬ姿になった女を見て、男は自分の身のうちからこみ上げてくる激情を抑えることが出来なかった。ベッドに押し倒し、むさぼるように唇を奪う。柔らかく舌を絡め合いながら、男の手は下の方へと伸びていく。
 だが、男の下で小さく震えている女に気づき、少しだけ冷静さを取り戻した。
片手で女の体を抱き締め、男は優しく女の髪を撫でる。
「はぁん……」
 女は潤んだ目で男を見つめた』
 
 オレはいたたまれなくて立ち上がろうとした。だがお嬢様の方が一瞬早く、オレは背中にのしかかるお嬢様の体重を感じた。

「髪を撫でられる、これって感じるのかしら。いつも疑問だったのよ」
そう言いながら彼女はオレの頭をよしよしと撫でた。
「これじゃダメみたいね」
彼女はいきなりオレの髪を解いて、オレの頭から髪の先までなで下ろした。
正直に言おう、ぞくっとした。撫でられることにだけでは無く、このシチュエーションに。
彼女はオレの頭を背後から左手で抱え込むようにしながら、右手でオレの髪を撫でているのだ。オレのすぐ後ろに彼女がいる。彼女の匂い、柔らかな体の温かさまでわかる。全身がまるで心臓になったかのように大きく音を立てて打っているが、それはオレの体なのか、それとも彼女の体だろうか。

彼女の手がオレの髪を何度も撫でる。
「ふうん、つやつやしてキューティクルもばっちりね」とか言いながら。

「感じる?」
 さっきより重さが増した。彼女の甘い息づかいまでわかる。
「隆史」
 頭に回された手に力がこもり、一瞬、耳に軽い感触がかすめてそのまますうっと離れていった。
オレの視線と彼女のそれが絡み合う。しばらくして、先に目を伏せたのは彼女だった。

オレは声を振り絞るだけで精一杯だった。
「……オマエ、遊んでいるなら止めておけ」
 彼女は一瞬動きを止めたが、口だけゆっくり微笑むと
「美由紀よ、呼んでみて」
 とだけ言った。

「オレは恋人の名前しか呼ばない」
 そう告げると、彼女は初めて動揺を見せた。何か言おうとするようにくちびるを震わせる。
 そんな彼女の顔を見ながら、オレは最初から気にかかっていたことを聞こうと思った。
「どうしてオレなんだ?」

 もっと深い理由があるんじゃないかとずっと思っていた。彼女の態度が積極的すぎる。
 彼女は雑然とした一人暮らしの男の部屋に目をさまよわせていたが、やがてささやくように言った。
「医療ミスをおこしかけたの」

「悪性高熱症よ。手術中に患者の体温が少しずつ上がってきて、それに気づかなかったの。このまま体温が下がらなければ死んでしまう。麻酔の前にきちんと確かめておかなかった私のミス。急ぎの手術だからって、今までそんなことになる人がいなかったからって、手術前の検査を怠っていいことにはならないのに」
「幸い大事には至らなかった。けれど怖かった。今まで手術中や術後に亡くなったりするのは仕方ないって思ってたけど、私も人の存在を消すことが出来るってわかったら本当に怖かった。この仕事は好きだけど怖かった。誰も私のことなんか必要としてないんじゃ無いかと思ったら、砂漠で私の足下の砂がぽろぽろ崩れていくようだった。怖かった……」
 彼女は泣いてはいなかったけれどゆらゆら揺れて本当に崩れて消えてしまいそうだった。オレがずっと抱いていた孤独、それを彼女も知っている。この小さな体で。
「誰かに一緒にいて欲しかった。怖かったの。桐生さんを見たときに、この人なら私と一緒にいてくれると思った。どうしても一緒にいて欲しくて、わかって欲しくて……」

 オレは気がついたら美由紀を抱き寄せて頭を撫でていた。「わかった」「もういいんだ」「大丈夫だ」と繰り返しながら。オレのことを桐生さんと呼んだ。これがたぶん美由紀の本音だろう。
 もしも傷つくようなことがあればオレが傷つけばいい。無駄に今まで歳を重ねてきたわけじゃ無い。オレの体は無駄に大きいだけでも無い。支えが欲しいときにはすがりつけばいい。
「わかった、美由紀がヘマしないように見張っててやる。それでいいんだな」
 そう言うと、美由紀は顔を上げてにっこりと笑いながら、「美由紀って呼んでくれた」と言って涙を一粒こぼした。

***
「わかったから離れろ、そんなにくっついてるとヘンな気分になってくる」
 オレが手を離したのに離れない美由紀を、無理にはがそうとしながら言うと、
「私はいいわよ、そうなっても」
 そう言って美由紀は艶然と微笑んだ。

「さっきも言ったでしょ。女が一人暮らしの男の部屋に入るってことは、それなりの覚悟をしてるってことよ。
 でもね、私をその気にさせるのは並大抵のことじゃないわよ。それでもその気があるならどうぞ。
 今日の勉強の成果を見せていただきましょうか」
お嬢様は健在だ。降参だ。オレは両手を挙げて降参ポーズをしながら、苦笑いするしか無かった。

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