壱頁劇場すぴのべ
「気持ちいいかい?」
少年は栗色の毛並みにブラシを入れながらやさしく問いかける。ブラッシングは日課となっているが、今日は特に念入りだ。濃いこげ茶色の毛並みが一層光沢を増している。牧草のにおいが少年の鼻をくすぐる。
「もうしばらくしたら車に乗るんだよ。お前は今まで嫌がったことがないから、安心できるね」
少年はブラシをしまい、絹織物のぬめりを思わせる滑らかな肌触りを楽しんだ。温かい皮膚の下で確かな鼓動が息づいており、それは愛馬が今、確かにそこにいることを確信させるものだった。
愛馬は今日、この牧場を離れてトレーニングを開始するのだ。血統の良い母馬の仔であったが、少し早産だったので生まれた時から目が離せなかった。競走馬にできるかどうかわからない不安がこの仔馬には付きまとっていたが、少年はそう言われるたびに自信に満ちた表情で、
「いまにみていてください。この仔はやりますよ」
と、答えるのであった。
その言葉通り、この春からトレーニングセンターに入り訓練をさせることになった。しかし、少年の目には喜びの表情はない。
「僕にできるのは今はここまでなんだ。お前はこれから訓練士さんに預けられるんだ」
最後まで育てることはできないと最初からわかっていた、競走馬の訓練は特殊なものだから。知っていた、わかっていたのに、別れはこんなにつらい。できるならこのままさらっていきたい。競走馬を引退してももうこの牧場に戻ってくることはないのだ。この牧場は新しい仔馬を育てるための牧場だから。
「僕もジョッキーになることに決めたよ。お前が車に乗ったら、僕も出発する」
競走馬として走ることができるのは五、六歳まで。今この仔は二歳だから、順調に競馬を走ることができたとしても、この仔馬の背に乗って走ることは多分できないだろう。今別れたら、きっともう会えない。
仔馬の名前は一応付いていたが、少年がその名前を呼ぶことは一度もなかった。新しい馬主さんが新しい名前を付けるので、馬が混乱してはいけないから、というのが理由だ。
「よかったな、いい名前を付けてもらえよ。そして、一つでも長く走るんだ。待ってておくれよ、僕が騎手になる日を」
時間になり、愛馬はトラックに乗せられてエンジン音が響いた。砂埃がもうもうとたちこめ、少年は目を閉じた。この目を開けたらもう愛馬の姿はないのだ。ほこり臭いガソリンのにおいが消え去ってしまっても、目を開けることができなかった。
「さよなら、ショータ」
少年の目から一粒の涙がこぼれおちる。ショータはついに呼びかけてやれなかった愛馬の名前。少年は自分の翔太という名前を、死にかけていた仔馬に与えたのだ。
少年は温かい春の日差しの中、いつまでも見送っていた。目を閉じて。その瞼の奥に映っているものは、クローバーの咲き乱れる牧場をどこまでもかけ続ける翔太少年と、仔馬のショータの姿であった。