漆黒の鷹漆黒の鷹

第一章 高市(たけち)
1 黒いマントの男

 高市(たけち)は祖父と二人で肩を寄せ合って暮らしていた。寂しくないと言えば嘘になるが、祖父はいつも優しく、時には厳しく、十二歳になるまで一人で高市を育ててくれた。
 高市にはいつの頃からか夢があった。三方を崖に囲まれた狭い盆地の村は貧しい。この切り立った岩肌をよじ登り、外の世界に飛び出せたら。そう考えるだけで体中が沸き立ってくるような気がした。
 じいちゃんにもうまい肉を食べさせてやれるかもしれない。高市の一番の願いはそれだ。この谷間の村にはあまり生き物がいない。ウサギや、野ねずみなど小さな生き物だけだ。人々の生活を支えているのは、村の外れを流れる大きな川で捕れる魚介類だった。
 つるつると切り立った崖が、雲を突き抜けてそびえ立っている。この岩肌をよじ登っていくのならほんの少しでも手や足を滑らせたら、それでもう命はないと断言出来る。そもそもよじ登るにも、わずかばかりのとっかかりも見つからない。歳月につるつるに磨き込まれた断崖絶壁、ここを越えることは人間には無理であろう。あの崖のてっぺんには、そしてその向こうには何が広がっているのか、この盆地に住む高市には一生わからないことかもしれない。

「じいちゃん、あの崖のてっぺんに誰が住んでいるんだ?」
 岩魚釣りに行っての帰り、じいちゃんと呼ばれた男の腰には数匹の獲物がくくりつけられていた。今日と明日の飯の心配はなくなったので、その足取りは軽やかだ。
「あんな上まで人間が登れるものか。獣や鳥ならおるかもしれんが」
 もう高市は十二歳だというのに、祖父は孫のことが気になって仕方がないらしい。祖父に手を取られて高市はやれやれとため息をついたが、振り払うことまではしなかった。
「この間、あの岩の上に立っている人影を見たぞ。遠すぎてわからなかったけど、あれは人間だと思う。だからどこかに、あの岩をよじ登る手立てがあるに違いないんだ。おいらはあそこまで行ってみたい」
 祖父は立ち止まり、握っていた高市の手にぎゅうと力を込めてきた。
「おまえ、そのことを誰かに言ったのか?」
 高市は手を痛そうに手を放す。そして不審そうに祖父を見上げた。
「誰にも言ってない。おいらだけの秘密だ」
 祖父は高市の手をもう一度取り、そのしわだらけの手で包み込んだ。
「じいちゃんと約束しておくれ。そのことを誰にも言わないと」
 祖父の目はやけに真剣な光を帯びている。その強い光に押されるように、うんと頷きながら高市は問いかける。
「わかったよ。わかったけど、なんでそんなこと言うんだ? 何がいけない?」
 人の良さそうな祖父は少し困ったように顔を背けたが、思い直し、愛しい少年に伝えるべき言葉を探し始める。
「あの崖の上に人はおらん。おらんものは見えんはずじゃ。もしも見えたというのなら、おまえは見るはずのないものを見たということになる。……それにな、若い頃に聞いたことがあるんじゃ。あの崖の上に人を見たものは死ぬ運命じゃと。わしはおまえに死んでほしくはないんじゃ」
 じいちゃんは心配性だ。高市は口の中でそうつぶやく。高市の両親が鉄砲水で亡くなってからと言うもの、朝から晩まで孫の心配ばかりしている。高市はもう十二歳になった。岩魚の仕掛けも一人で作れるようになったし、石を飛ばして小鳥を取ってくることだってできる。魚釣りはまだ祖父には叶わないけれど、それだっていつか追い抜けるだろう。
 しかし祖父は根拠のないことは言わない。この時期は毒があるからこの木の実は採るな。足元が危なくなっているから橋を直すまでここはわたるな。経験と確かな観察で、村中の者が意見を聞きにやってくる。そんな祖父がここまで言うのだから何かあるに違いない。高市の祖父に対する信頼は絶大である。
「わかった。言わないよ。じいちゃんも心配するなよ」
 そう言って少年は祖父の背中をポンと叩いた。今はまだここまでしか届かないけれど、しばらくすれば背伸びしないで肩にだって届くはず。村で一番大男の祖父を追い越すのは、孫である高市にしかできないだろう。そして大きくなった体で、思いっきりうまい獲物を取りに行こう。あの崖を登れば鹿だっているかもしれない。油のたっぷり乗った肉を食わせてやれる。高市少年の心は目の前の断崖絶壁をものともせず、どこまでも広がるどこかの大地を見据えていた。
 年齢にしてはかくしゃくとした祖父は、そんな孫に不安を覚えながらもうまく包み隠し、声を掛けた。
「高市、そろそろ帰ろう。もう足下が見えんぞ」
「じいちゃんこそ転ぶなよ」
「ばかにするな、ひよっこが。まだまだおまえには負けんわい」
 五十年以上の年の差をものともせずに、二人はじゃれ合いながら家路を急ぐ。歩きなれた道なので心配はない。夕闇がねっとりと濃密さを増し、直に二人の姿は見えなくなった。

 二人の話を聞いていた者はいなかった、はずだった。しかし、二人の声は風に乗り、空気に融けて、断崖絶壁を軽々と駈け上っていた。
 崖を登り切ったところには、二十人ほどが集会出来るくらいのごつごつとした岩場が開けていた。その向こうにはうっそうとした真っ黒な森がどこまでも続いており、それ以上の立ち入りを拒んでるかのようだ。
 森の入り口で暗闇に溶けるように立っていたのは、全身黒ずくめの男。漆黒の艶やかな黒髪は顔の半分を覆い隠し、片目をも隠していた。そして、それよりも奇異なのは、その黒いマントのような衣服の背中に見える大きな翼だった。真っ黒な翼は鴉の艶やかさを持ち、鷹のように精悍だった。
 その男は見えないものを見、聞こえないものを聞く術を持っていた。だから、いとも容易く大気に溶け込んだ二人の会話を取り出すことができた。普通の人間なら聞こえないはずの声に耳を傾ける事が出来るのだった。
「高市――か」
 下界では人々が夕餉の支度を始め、夜空の一番星が強い煌めきを放つようになっても、その男は立ち去らず何かを考えているようだった。

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