だから、待ってるから
ドアのノックの音で目が覚めた。
「……遼クン……起きて……」ためらいがちな声。
うわっ、まずい。あのまま寝てしまったようだ。
「はい! すぐいきます」
「……よかったぁ、通りで待ってるから、支度できたら来てね。急がなくて良いから」
潜めた声でささやくように言った後、階段を降りていく音が遠ざかっていった。
お袋に電話できなかったな。
俺は慌てて着替えを始めた。
「ゆっくりでよかったのに」
そう言ったのは昨日のオバサン……というか、いつもはこんな感じなんだろうな。朱色のベレー帽をあみだにかぶってさりげなくおしゃれだ。薄い緑のカーディガンが似合っている。茶色のスカートと靴もなかなか。自分に似合う格好がわかっている感じだ。
顔は美人ではないけれど、愛嬌のある顔……といえばいいかな。丸顔で童顔だけど、それがかえって今日は30代くらいに見える。
昨日は暗がりだったから老けて見えたのか?
「昨日は情けない格好だったもんね。これなら一緒に歩いてくれる?」
駅前のマックで俺はハンバーガーにかぶりついていた。
そういえば、俺は朝から鏡も見てないような……ちょっと申し訳ない気さえしてきた。
「……どこにいきたいんですか?」
「んー、あのね、まず確認ね。今日かかる費用は全部私が払う。誘ったのはこっちだし、年上だし、親戚だしね。それでいいよね?」
このハンバーガーを買うときに揉めたのだ。
電車賃などは出してもらっても良いが、俺だけが食べるマックまで払わせるのはおかしいだろう。
しかし彼女には払いたい思惑があるようだ。
なんだ、それは? 何を企んでいる?
俺が黙っていると、彼女はもう一度念を押した。
「決まりね、遼クン。文句は聞かないからね」
俺が諦めて軽く頷くと、彼女はふわっと笑いながら付け足した。
「今日が終わるまで種明かししないし。諦めて、ね」
口に付いたケチャップを拭いながら、俺も苦笑いするしかなかった。
「それじゃ、腹ごしらえもできたし、つきあって欲しいところがあるんだけど」
と、連れてこられたのは、なんと百貨店だった。
百貨店なんて殆ど入ったことがない。母親のお供で何度か入ったような記憶があるだけだ。一人暮らししてからは足を踏み入れたことすらない。
かるがものように後ろをついて歩いていたら、急にシャツを顔に押しつけられた。
「コレ、コレがいいと思う。御試着お願いします」
って、誰に言ってんだ? 俺か? 俺が着るのか?
「あの上にベストがいいんですけど、似合うのあります?」
試着室のドアの向こうから、店員と話している彼女の声が聞こえる。
艦長、これはドッキリなんでしょうか?
俺は結局、グレイのズボンと、チェックのシャツと、白いベスト、そして茶色の革靴まで買うことになった。もちろん彼女の支払いで。
買ってもらう理由がないと、何度も何度も拒否をして押し問答を続ける俺に、彼女は涙ぐみながらこう言ったのだ。
「だって、私の若作りにも限界があるじゃない。そっちからも歩み寄ってくれなくちゃ、デートにならない!」
そういうわけで、俺は愛用の古ぼけたトレーナーと、膝が出てくたくたになったジーンズ、しばらく洗ってない年季の入ったズック靴の入った紙袋を渡され、かなりげんなりしていた。
「高かったんじゃないのか?」
店員を前にしての激しい押し問答の応酬の間に、何とか保っていた敬語も消えてしまった。
「ブランドものっていうわけじゃないし、安くて遼クンに似合いそうなもの、探すの得意なのよ」
得意げに彼女が言う。
ん?なんか引っかかったぞ。探すの得意?
言い掛けた俺の言葉は、彼女に遮られてしまった。
「でもなんか足りないのよねー、と思ってたんだけど、コレよ、コレ。これかぶってみて」
ニンマリしながら彼女が差し出したのは、なんとハンチング帽。
「こんなのかぶれっていうのか?!」
俺は自慢じゃないが、野球帽しかかぶったことがない。なんの拷問だ、これは! こんな格好して歩いているところを誰かに見られたら……。
「遼クンはコレが似合うのよ。あたしに任せなさい。ホラホラ、鏡見て」
やけにきっぱり言い切る彼女は何を考えているのだろうか?
……確かに似合っている。今までは目を反らせていたが、洋服もそれなりに似合っている。
「ふふーん、いいでしょう?コンセプトは英国紳士よ。ニッカボッカ、買っちゃう?」
……もう、どうにでもしてください……。