壱頁劇場すぴのべ
週末はお互いに予定が入っていなければクマさんがフジコちゃんのところにやってくるというのが、二人の間で不文律として確立しつつある。いつのまにそんなことになったのか、フジコちゃんは疑問に思ったりもするのだが、気がつくとサザエさんのエンディングテーマに合わせて、緊張感のない声が「まあええやん」と頭を撫でにきたりするので、いつのまにか懐柔されている。
この週末もそんなふうに終わりそうだった。夕飯を軽く済ませ(もちろんクマさんが用意した)、ビールと枝豆、冷や奴の用意されたローテーブルを前にして、クマさんお気に入りのソファに座って一本目のプルトップを引き抜いた。
各国の面白そうなビールから始めて、国産ラガー系に落ち着くのもいつものことだ。クマさんが買ってきたさくらんぼの絵のついた缶をしげしげと眺めながら、「ベルギーねえ、行ってみたいわねえ」とフジコちゃんが遠い目をする。さすが、教師でありながら学内美人コンテストで四連続優勝した実績の持ち主である。そんなしぐさもどことなく艶っぽい。
対するは、普通に背広を着ていてもどことなく野暮ったさの抜けないクマさんである。国文学科の教授にまで昇進したくせに、いつもよれよれの背広の上に白衣をひっかけている。そのイメージが強すぎて普段着を着ていても背広に見えてしまう。ある意味残念な男なのだが、本人はどこ吹く風とばかりに気にもとめず、飄々と突き抜けている。
「ほんなら新婚旅行はベルギーにしよか」
このように事あるごとに果敢にアタックしてはいるのだが、それが枝豆三つを一気にほおばって、そのさやを口から吐き出しながら言ったりするから、フジコちゃんとしてもなんとも情けなさそうな顔でため息をつくしかないのだ。食べた後のさやを入れる器まできちんと用意しているのはさすがクマさん、なのだが。
そんなこんなで夜も更けて、それでも何となくいい雰囲気になってきたとき、フジコちゃんの携帯がブルブル震えだした。
「はい、田中です。山村教授、こんばんは。どうかなさいましたか?」
山村教授というのはフジコちゃんのことをあきらめきれないというか、クマさんと結婚なんてとんでもない、フジコ先生に似合うのは自分だと信じて疑っていない、古代エジプトの売れっ子教授である。ダンディでマスコミへの露出が多いためサインを求められることも多いのだが、色紙にはいつも「英雄色を好む」と書き添えるとか。さもありなん。
クマさんはだまって冷や奴をモゴモゴつついているが、よく見ると醤油と食べるラー油の瓶を用意しているくせに、目の前の皿の豆腐は真っ白なまま、半分ほどだらしなく崩されている。電話の内容がやはり気になるようだ。
「ええ、わかりました。それでは明日。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」
携帯をパチンと閉じて、三本目のラガービールを飲み干す。四本目を開けようか、それとも日本酒で締めようかと迷っているフジコちゃんに、クマさんが声をかけた。
「山村サンがどないしたんや?」
「明日の検査の被験者になっていただけるそうよ。立候補してくださったんですって」
クマさんはコップに爽やか風味の日本酒を半分注いで、フジコちゃんに渡す。
「一人だけ?」
「ううん、神代食品の検査で、明日は三人かな。それよりもうちょっと入れてよ」
「もうそれくらいにしとき。アンタ、酔うたらカラんでくるから、かなわん」
「これ、この間なくなった美味しい日本酒でしょ。せっかく新しいの買ってきてくれたんだから飲まなきゃ」
にっこり微笑んだフジコちゃんの顔を見ながら、クマさんは面白くなさそうに、自分のコップになみなみと酒を注いだ。
「あ、アンタ、自分だけ飲むっていうの? 買ってきたからってその態度はないんじゃないの」
フジコちゃんは悪魔の水を奪い取って満足そうだ。今日はさんざんカラまれた後、爆睡コースになるかもしれない。夜のお楽しみはお預けだな、と悪魔がからかう声が聞こえる。本気を出せばフジコちゃんの方がお酒には強いのだから。
次の朝、二日酔い寸前の重い頭を抱えたクマさんは、隣で何事もなかったかのような顔をしているフジコちゃんに声をかけた。
「見てみ、黒猫とカラスが一緒にこっちを見てるで。なんや悪いことでもおこるんとちゃうか」
「それで駅に行ったら9と3/4番線があるとか言い出すんでしょう。ヘンな映画ばっかり見過ぎよ」
「いやワシは本を読んだんや」「どっちでも一緒でしょう」と朝からうるさい二人の後ろ姿を見送るように、カラスが一声「カア」と鳴いた。
「そう言うたら一緒に学校行くの、初めてやな」
クマさんが定期券を引っ張り出しながら感慨深げに言う。それを聞いたとたんフジコちゃんは教師としての立場を思い出したのか、慌てて五歩ほど離れた。
「ええやん、もう一緒に住んでるみたいなもんやし」
「こんなとこでナニ言うのよ。離れてよ」
フジコ先生は声と一緒に眉もひそめたが、クマさんは知らん顔でフジコちゃんの肩に手を回そうとする。
そのとき後ろから声がかかった。
「フジコ先生、おはようございます!」
二人で並んでいるのにフジコ先生にだけ声をかけて、クマ先生をことさら無視しているのは、神代食品の依田氏だ。彼もフジコちゃんのことをねらっている一人である。
「あら、依田さん。おはようございます」
「ああ、神代サンか。おはようさん」
「僕には依田という立派な名字があります! クマ先生こそお早いんですね」
噛みつくように言うと、依田氏は階段を登りながらさりげなくフジコちゃんの隣にならんだ。
「今日の官能検査ですけどね、山村教授が協力してくださることになりました」
「ええ、昨日聞いたわ。それにしても依田さん、いつのまに山村教授と仲良くなったのかしら?」
フジコちゃんがそう言うのと、ほとんど同時に、クマさんが呟いた。
「カンノウ検査?」
その小さな呟きを聞き逃さなかった依田氏は、勝ち誇った笑みを浮かべてクマさんに宣言した。
「ええ、山村教授と、あとは鈴木くんに栗村くん。今日の検査に協力をお願いしました。三人ともフジコ先生ファンクラブのメンバーです。あ、官能検査はもちろん、官能小説のカンノウですよ」
最後の台詞は他人には聞こえないように小さな声だったが、クマさんにははっきり聞こえるように調整されていた。
「何時からするんや?」
「一時からですよ。クマ先生は授業がおありでしょう?」
お見通しだと言わんばかりの態度をとられて、クマさんにも多少の動揺が見受けられた。
「どんな検査なんや?」
「さあ、それはねえ、僕の口からは何とも」
そこで二人は同時にフジコちゃんを振り向いた。
「ねえ、フジコせんせ……」
そして真っ赤な顔をして依田氏を見つめているフジコちゃんを発見したのであった。
「どないしたんや?」
クマさんが声をかける。フジコちゃんはハッと気づいたようにクマさんを見て、それからもう一度依田さんに目を戻した。そして首を一振りすると、
「どうもしないわよ、行きましょうか」
スタスタ歩き出した。
「フジコ先生、あんな言葉に動揺するなんて純情でかわいいんですね。惚れ直しちゃうな」と依田氏が言ってるのを置き去りにして、クマさんはフジコちゃんを追いかけた。
大学の正門が見えてきた。
「ちょっと離れてよ」
先生モードに入ったフジコちゃんはすげなく言う。クマ先生も「いまさらやろ」と言いながらフジコ先生と距離を取った。
「ほな、いこか」と言いかけて、クマさんはフジコちゃんの様子がおかしいことに気づいた。フジコちゃんはクマさんの下半身をじっと凝視していたのだ。
さすがに慌てたクマさんが「アンタ、こんなとこでどないしたんや?」と耳打ちした。
「バッ、あたしはねえ……」
何かを言いかけたフジコちゃんであったが、「おはようございまーす」と挨拶しながら歩いて行く学生を見て、やっと平常心を取り戻したようだ。「先に行くわよ」と言い捨てて振り返りもせずに正門をくぐっていった。
後に残されたクマさんは首をひねりながらついて行った。
今日は厄日かもしれん。
クマさんは思う。
朝は変な調子で別れたきり、昼食を誘いに行くもフジコちゃんは外出中。せっかくの同伴出勤も依田氏に邪魔されるし。黒猫とカラスがあかんかったかな。
そういやもうすぐ一時やな。官能検査て何やねんやろ。ちょっと見てこんとあかんなあ、授業どないしたろ?
さすがに授業をサボるのはまずいだろうと思い直し、休み時間に顔を出してみるかとあきらめかけたとき、ドアが勢いよく開いて当のフジコちゃんが入ってきた。
「クマ! 足は大丈夫?」
真剣な顔でクマさんの側まで来ると座り込み、右足の太もも辺りを検分するように触っている。
クマさんはのんびりと、
「アンタがその気になってくれたんは嬉しいねんけどなあ、時と場所も大事やで。もうすぐ授業始まるし、ほら山村サンも来はったで」
と、フジコちゃんの頭をぽんと軽く叩いて、開けっ放しだったドアの向こうの山村教授に挨拶した。
フジコちゃんははじかれたように立ち上がり、「これは、その」といいわけを探すそぶりだったが、山村教授が「ミス・フジコ。独身女性が男性の部屋に入るのはあまり感心致しませんね。入るのなら私の部屋にしてください」といつもの調子だったので気がそがれたようだった。
結局、クマさんのお茶の誘いを断り、
「私のヒロインにさよならを言うのは残念ですが、今日の検査が中止なら仕方がありません。貴女も早くおいとまするのですよ」
と、山村教授は去って行った。
フジコちゃんは「あと二〇分ほどあるし、お茶でも飲んでいき」という言葉に素直に従い、湯飲みを抱えている。
「で、どないしたんや?」
クマさんが軽い調子で尋ねると、フジコちゃんは厳かに宣言した。
「まもるくんよ」
「……まもるくんて、学生が騒いでいる、あのまもるくんか?」
「そう、そのまもるくん。私、今朝依田さんの肩に留まってるのを見たのよ」
「留まってるて、まもるくんて留まったり、飛び立ったりするもんなんか? まあええわ、そんで?」
「そうしたら依田さんから、『右肩にクリームシチューがかかって火傷したから今日の検査は延期してください』って電話が入ったのよ。偶然とは思えないでしょ?」
「なんでクリームシチュー? 神代食品の納豆やったらわかるけど」
「夫婦ゲンカのとばっちりらしいわよ。マンションのベランダから降ってきたんですって」
「犬も食わへんのに、神代サン食べたんか、クリームシチュー」
次々に繰り出されるクマさんのボケに、フジコちゃんは呆れて首を振った。
まもるくんというのは最近ちまたで噂になっている「ヘンなもの」である。人間の体や壁、電柱、どんなところにでも生えてきてニコニコしている。特別危害は加えないし、放っておいたらいつのまにか消えているという。某有名ミュージシャンが発見したと言うが、真偽の程は定かではない。
「まもるくんは悪さはせぇへん、いう話やで」
「だって肩にクリームシチューが降ってくるなんて普通じゃないでしょう。まもるくんが何かしたとしか思えない。あの時、まもるくん、依田さんの肩の上で小便小僧のまねしてたのよ」
「小便やのうて、シチューがかかったわけか。ちょっと面白いなあ。そんで検査が延期になったんか」
「そうよ、神代食品の社員がいないのに検査なんてできないでしょう」
フジコちゃんにお茶のおかわりを注いでやりながら、クマさんは軽い調子で聞いてみる。
「官能検査って何するんや?」
「食品を人間の五感をつかって、色や、匂い、味などいろいろな観点から検査するのよ。今回のはそれほど厳密じゃなくって、一般の意見が聞きたいんですって」
「それで山村サンや学生がかり出された訳か。官能なんていうからなんかいやらしいことするんかと思うた」
「そんなことあるわけないでしょ」
フジコちゃんはゆるやかなウェーブの髪を払いのけながら、フフンと肩をそびやかした。
「そしたら、昼間っからアンタが誘惑してくれたのはなんで?」
「こんなところでそんなこと、するはずないでしょう!」
クマさんがフジコちゃんの頭を軽く撫でると、フジコちゃんは口を開く。
「アンタの膝にもまもるくんが留まってたのよ」
「それでか。何してた?」
「アタシに投げキッスして消えちゃったわ」
「まもるくんにときめいたん?」
「そんなわけないでしょ!」
クマさんは、そっぽを向くフジコちゃんの耳に口を寄せて
「心配してくれてありがとう」
と、魅惑のバリトンでささやきかけた。
この低音ボイスに弱いフジコちゃんが腰を抜かしかけたとき、授業開始五分前のチャイムが鳴り響いた。
「残念、ええとこやったのになあ。ほなら、このつづきはまた後で」
ペタペタスリッパを鳴らしながら、よれよれ白衣で出て行く背中を見ながら、フジコちゃんはがっくり肩を落としたのだった。