壱頁劇場すぴのべ
「でも、私はわがままなのです」
かのひとは息苦し気に、きっちりと重ねられた襟に手をやる。指輪がほのかな灯の下で鈍く冷たく光っている。このような場所にそぐわない気高く冷え冷えとした光で。
僕は殊更にその凍えた手を取り、慎重に中指に口付ける。僕のこの身ひとつではもて余してしまう、語るより以前にこみ上げてきてしまう思いを刻みつける。
「僕もです」
薄く開いた窓から、潮が満ちてくるときの駆け上がるような音色とともに、すすーっと風が吹き抜けてゆき、それからまた、現世へ引き戻される。黄ばみかけた障子紙にもどかしい思いを残したまま。
「外しても、よろしいのでしょうか」
伏し目がちに、柔らかな唇は胸に溜めた息をゆっくりとはき出す。鹿鳴館のシャンデリアの下で初めて見つけたあの白い指先が、今日はかすかに震えている。
「僕の願いはそれだけです」
潮の揺れては引き戻す、ただ心の平穏だけを願っている。よどみに浮かぶうたかたの、お伽話の続きを語りたい。
うすぼんやりした影に捕らわれてその表情は隠れたまま。さび色をした一幅の絵のように彼女は時を止める。時が矯められて手を触れることも出来ない。もどかしくて、もどかしくて、でも僕はただその色褪せた絵画を見つめ続ける。息を詰めて。
見知らぬ誰かとの薬指の約束をもてあそびながら、彼女はやっと、その言葉を口から紡ぎだす。
「外してしまえばもう戻れませんね、貴方も、私も」
「望むところです」
満ち潮の激しい波音が部屋中に響いた。振り子時計がゆっくりと厳かに、日付が変わったことを報せ始める。
夜が明ければ猟犬たちがそこらじゅうを嗅ぎ回り、駅、宿屋が人海戦術でしらみつぶしにあうだろう。血走った目が、張り上げた声が、研ぎ澄まされた鼻が、僕たちの退路を断つために襲いかかってくることだろう。
大きな柱時計が口をつぐみ、部屋には再び静寂が戻ってきた。
僕はあの日と同じようにひざまずき、柔らかな手に口付けを乞う。仮初めの約束はするりと抜け落ちた。
もう僕らを縫い留めるものはなにもないのだ。
僕は窓を開け放つ。波が連れてきた清冽な夜の空気をこの身に受けとめるために。手のひらに吐きだした胸の痛みを、手の届かぬ向こう岸へ捨て去るために。
たとえ僕らがこの闇の底に沈むときが来ても、この指輪の隣に褥を並べることはないだろう。
この夜の果てに消えゆくように、すべてを込めて、おもいきり、投げる。