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花嫁の口紅

桐原草さんは「デパ地下」で 登場人物が「ゆらめく」、「口紅」という単語を使った怪談を考えてください。

 些細なことで彼と口げんかして、せっかくの土曜日の午後なのに、彼の車から飛び出してきてしまった。どちらが悪いと言うほどのこともない口論。今日の夕方か、遅くとも明日の日曜日には仲直りしているくらいのたわいもない諍いで、こんなことは私たちの間では日常茶飯事だった。
 家まで帰るのに電車に乗らなくちゃ、やっぱり車を飛び出すのは送ってもらってからの方がよかったわね、などと考えながら地下鉄の乗り場に向かう。ガラス張りの向こうに化粧品売り場が見えた。この百貨店、地下に化粧品売り場があるのね。そういえば今つけている口紅は彼に選んでもらったんだっけ。なんだかむしゃくしゃするから、新しいの買っていこう。そして私は百貨店の重いガラスのドアを開けた。

「口紅をお探しですか」
 声をかけられて振り向くと、見たこともないほどハンサムな男性。切れ長の目に、すっと通った鼻筋、男性には不似合いなほどのぬれたような赤い唇が印象的だった。
「男性の美容部員さんって珍しいですね」
 私は百貨店の化粧品コーナーの一角で、指し示された椅子に座りながら言った。人通りのないついたての向こう側だったというのも落ち着けていい。化粧品メーカーの名札を下げた男性は、鏡の位置を直しながら答える。
「皆さんそうおっしゃいますね」
 そして私の後ろに回り、頭を両手で軽く押さえながら、鏡の中の私をじっと見つめた。
「貴女は磨き甲斐がありそうだから」
 鏡の中には、頭を包み込むように両手で押さえられている私と、私に向かって笑いかけているとびっきりのハンサムな男性が写っている。その構図は美容院などでなれているはずなのに、なぜか背筋がぞくっとした。
「今までの化粧はすべて落としてしまいましょう。新しい貴女のために」
 ひんやりしたコットンで顔をぬぐわれる。なんだか聞きようによってはどきっとする台詞なんですけど、なんて思いながら普段お目にかかることのないすてきな男性に顔を触られて、私はどきどきしていた。

 鏡の中に現れたのはすっぴんの私。「今から新しい貴女の始まりです」なんて、俳優かと思うほどのすてきな男性に頭の上でささやかれて、鏡の中の私まで上気していた。
「軽く目をつぶっていてください」
 言われるよりも早く、彼の指が私のほおに触れて、ファンデーションを塗り込めていく。その冷たい感触に思わずびくっとする。
 鏡の中の男性の顔を、目を開けてもう一度見直してしまう。彼は私に気づいて、鏡の中からにっこり笑いかけた。美しすぎるほど整った唇が私に向かって笑っている。なのに私はとっさに思ってしまった。
「捕らわれる!」
 慌てて立ち上がり、彼に向き直って伝えた。
「もうこれでいいです。急ぎの用事を思い出したので」
 しかし彼はやんわりと私の肩を押しとどめた。
「まだファンデーションを片頬にしか塗っていませんよ。お座りください」
 そして私の背後に回ると、その冷たい指先でファンデーションを伸ばしながらこう言ったのだ。
「花嫁のように美しくしてあげますよ」

 私の心臓は痛いほど鳴っていた。それがこの美しい人にときめいているのか、それとも訳のわからぬ不安のためなのか判別のつかぬまま、私の化粧は続けられていく。
 ファンデーションが終わり、眉を整え、目元に色を差す。ラメを入れて華やかになる目元。チークを入れるくすぐったいブラシの感触。今まで見たこともないほどきれいになった私がそこにいた。
 彼が手をぬぐっているのを見て、私は終わったのが残念なのか、ほっとしているのかどっちなんだろうと思いながら、「ありがとうございました」と立ち上がろうとした。
 しかし彼は振り返り、歩きだそうとする私の肩を押しとどめながら、私の耳元にささやいた。
「口紅がまだですよ」

 彼の手は私の肩から背中を通り、腰の方へ滑り落ちてゆく。なんだか抱きしめられているみたい、と気づいたときには、私はもう彼の腕の中に落ちていた。
「私のために化粧した貴女は美しい」
 彼の声が私の耳をくすぐり、私の胸はあたりに聞こえるほど高鳴っていた。
「最後の仕上げだよ。幾千の乙女のため息を閉じ込めたこの口紅を、永遠の花嫁に」
 そうささやくと、彼はその血にぬれたような唇で私に口付けた。それきり私は何もわからなくなってしまった。

 閉店後、警備員は百貨店の化粧品売り場の片隅で一本の口紅を拾った。それは血のように真っ赤な口紅だった。

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