テオくんへ捧げます



いつも「すぴばる」でお世話になっているいつきさんのところのテオくんに一目惚れしました。

 僕はいつも遠くから見ていた。
 
 教科書を読むときの彼女のメリハリのある話し方。一等仲のいいジュリアと話すときはほんの少し眠そうになるのも見逃していない。
 意地悪な視線に出会ったときはうつむかないで、むしろ顔を上げて挑戦的な目で相手を睨む。彼女の目は迫力があるから、軽い気持ちでからかってやろうとする相手はその場で退散する。
 ほんの少しはねるような歩き方も知っている。おしとやかではないけれど、階段を上るときには、腰から上は動かさないで一段飛ばしで駆け上がっていくんだ。そう、まるで天使の羽を背中につけているように。

 だからアンジェラが僕に話しかけてきたときには驚いた。死んだお父さんの職業を嫌っていたことは知っていたので。
「アンタの絵、なかなか素敵じゃない」
 彼女にそう言われて舞い上がった僕は、入学の決まっていたアカデミア芸術大学を辞退し、心酔していた画家の門戸を叩いて弟子入りを頼んでいた。
 後でそのときのことを彼女に打ち明けると、いつもの調子で「バカじゃないの」と切り捨てられたけれど。

 そんな風に僕たちは緩やかに始まっていったけれど、アンジェラのおばあちゃんが亡くなったとき、彼女は一言もしゃべらなくなった。
 売れない画家だったお父さんを見限って、娼婦に戻っていったお母さん。お父さんはすべてに絶望しておばあちゃんの元に帰ってきたけれど、すぐに亡くなってしまった。
 おばあちゃんはそんなお父さんが不憫で、娼婦に戻ったのは生活のためだとわかっていながらも、「あの子は罪の女から生まれた罪の子だよ」と言い続けた。
 アンジェラもそんなおばあちゃんの気持ちをわかっていたのだろう、他の誰かにからかわれたときは女だてらにとっくみあいのケンカまでするくせに、おばあちゃんに言われたときは何も言わず無言で立ち去るだけだった。そのときだけは彼女の背中から天使の羽が消えてしまうような気がして、僕も何も言えなくなった。

 おばあちゃんのお葬式の日、彼女はとうとう一言もしゃべらなかった。泣きもせず、笑いもせず、ただまっすぐ十字架を睨んでいた。ぴんと伸ばした背中には誰も声をかけることは出来なかった。
 色とりどりの花束が投げ入れられ、土が次々に柩を見えなくしていく。埋葬するときもアンジェラは黙ったまま、最期のお別れを言うことなく、おばあちゃんを見送った。
 会葬者たちが家に帰り着いた頃になっても、彼女はじっとおばあちゃんの柩の納められた土まんじゅうを睨み続けていた。

「アンジェラ」
 僕が声をかけると、彼女はビクッと体を震わせて、初めて僕に気がついたように目をまん丸にした。
「テオ、帰らなかったの?」
 僕が頷くと、彼女は「そう」と息を吐き出した。そして他人事のように軽い調子で言った。
「嬉しくないのよ。あれだけいなくなっちゃえばいいと思っていたのに。かといって悲しいかと言われれば、そうでもないのね。なぁんにも考えられないみたい。天使の羽をもぎ取られたような気分ね」
 そう言ってフフッと笑うと、「帰りましょうか」と坂を下り始めた。
 僕は並んで歩きながら、何とか慰めたいとそれだけしか考えられず、気がついたら彼女の手を取っていた。彼女は驚いたように手を一瞬震わせたが、すぐに握りかえしてきた。僕たちは何も言わずに、夕陽を背中に浴びながら、前だけ見て帰っていったのだった。

 僕はその後、本格的に画家の元に弟子入りした。ずっと反対していた家族も、その頃には諦めて応援してくれた。
 彼女はスカウトされて、モデルになることを本気で考え始めたようだった。モデルのアルバイトをしながら、元気に大学生を続けていた。
 僕たちはあまり会えなくなったけれど、お互いの休日が合えば、色々なところに遊びに行った。といっても景色のいいところでピクニックする事が多かったが。

 僕は様々なことを勉強しながら絵を描き続けていた。つらいこともあるけれど、天使の羽をつけた少女を描いていれば不思議と気が休まった。

「今描いている絵はなかなかいいから、できあがったらセレステ賞に応募してみるか」
 そう師匠に言ってもらえたのが先週の木曜日。
 そしてそれから一週間後の土曜の昼下がり、僕たちは近くの古城までハイキングに来ていた。二人で会うのは本当に久しぶりだった。 彼女はモデルの仕事のために切ったという短くなった髪を、やけに気にしていた。

「ずいぶん長く会わなかった気がするから特別に」と彼女がサンドイッチを作ってきてくれたので、ぼくはおじいちゃんのワイン蔵からとっておきの一本を拝借してきた。おじいちゃんがプロポーズした時に開けたというワインと同じ銘柄だ。

「このワイン、おいしい!」
 アンジェラはそう言っておかわりをねだる。
僕は何気なく言う。
「おじいちゃん家からくすねてきた」

 アンジェラ、僕の天使。
 キミはこのワインがおじいちゃんのプロポーズの言葉だったと聞いても、僕と一緒に飲みほしてくれるだろうか。少しばかり罪の味がするこのワインを。
 僕がキミに注ぎたい言葉はただ一つ。
――僕と結婚して。

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